非寛容な自分は他者に対してどう接せるか?

 今日は少し自省の意味も込めた日記を1つ。

 先日、私の大切な友人と大喧嘩してしまいました。理由は本当他愛もない事なのですが、簡単に言ってしまえば価値観の共有の問題です。私自身の価値観を友人に押し付けようとした形、といったところでしょうか。まあこの場合恐らく私が9割がた悪い予感がします。ただ1点だけ腑に落ちない点といいますか、個人的に熟考する価値がある点が見出せまして、それは「あなたと私とでは価値観が違うからどうしようもない」という言葉です。これがきっかけで色々考えたのですが、思った事は「価値相対主義の本質について」です。

 せっかくなので、たまには哲学も触れておこうかと、図書館に行きそれっぽい本を数冊借りました。私が勝手に仰いでいる人生の師からもお勧めの本を紹介されたので、その本も一緒に借りました。

 私が価値相対主義という言葉に初めて触れたのは今から5年前の事です。当時私はYahoo!Japanの教育討論板で興味深いトピックがありましたので、興味本位で参加していたのですが、その時に出会ったといいますか、あった書き込みの中に「私は価値相対主義ですから〜」云々という文章以下に記述される整然とした文章に愕然としたのがきっかけです。私自身価値相対主義を少しずつ知るに連れて「実はあまり大したことはない考え方なのかな」と思いながらも、その方の書き込み方は感情的な批判などはほとんど展開されておらず、むしろ様々な議論に対して積極的な批判を展開されていたので、単に自分の理解が不足しているだけだろうと思ってそこでスルーしていました。

 で、今回何冊か本を読んで、価値相対主義の本質がまた少しずつ分かってきたような気がします。とりあえず分かった事は、「一つの社会を維持しながら発展してきたものが文化であった。そのような、時間のふるいにかけられた正当な根拠を持つ文化であれば、たとえ自分たちの考え方と違っていても、その正当性を尊重しようという立場が、本来の価値相対主義であった。ところが現在の価値相対主義というものは、いつの間にか、過去から引き継がれてきた集団というものを離れて、全く過去とも他者とも切り離された、現在だけを生きる孤独な個人の思想だけに根拠を持つものになっている。それは本来の、過去の経験や伝統と密接な結びつきを持った価値相対主義とは似て異なる、全く別のものである」ということです。これなら身近に見る価値相対主義が安っぽく見えて、Yahoo!Japan掲示板に書き込みをされていたあの方の価値相対主義に圧倒される、というのは筋が通っているような気がします。この感じだと「なぜ人を殺してはいけないか?」等という問いにも答えれることもできますし、現状私が一番納得できる答えだと思っています。

 つまり、少々極端な話になるかもしれませんが、身近に見られる(過去に依存していない)価値相対主義の考え方を延長していけば、価値観というのは個人の数だけあることになり、個人の数だけある価値観というものは何ら社会に共有されるところの無い、社会にとって無意味なものになってしまうでしょう。そこには社会と個人を結びつけるものがなくなってしまい、やがて社会は解体してしまうことになるのではないか、と。

 とりあえずこれらの考えから現状の私の考えは固まりました。で、問題はここからで、じゃあこの分かった結果をいかにこの件にうまく合わせれるか?という点です。やはり自分として嫌いになってほしくない人とは価値観を極力合わせたいなと思うわけで、かといって衝突した場合そのまま私の価値観を押し通せばそれはそれで関係の破綻というのも見えています。といっても相手の価値観を受け入れるのもどうも今回は違うような気がしてなりません。

 という事で2人で話し合った結果、「とりあえずこの件は触れない方がいい」という事で収まりました。どうしても2人の間で譲歩する点がないのなら、わざわざその部分を深く掘り下げて相手の欠点(と思われるべき箇所)を指摘したりするのではなく、もっと他の良い点を見ようじゃないかと。喧嘩するのもたまにはアリかもしれませんが、あまりにも人間性を突くような批判や感情的な物言いの交錯が続くようだとお互いにプラスになる事はないですし。親しき仲にも礼儀ありとはよく言ったもので、全くその通りだなと感じる今日この頃です。