カルト宗教の討論が形骸化する理由

まず、この話はカルト宗教の分野に対して興味がある方しか分からないと思うので、悪しからず。

私自身このような討論(Web上でも実際にも)に参加した事があるのですが、どうしても形骸化する/堂々巡りになってしまうパターンが多いです。以前私が作成していたHP(もう閉鎖しましたが)では、そういったパターンの根源にあるのは「巨視的な話と細微的な話をごちゃ混ぜにして展開しているからそうなる」という、いわば大まかな振る舞いのみを規定した考えを展開していました。例えばカルト宗教組織としての大まかな教義ないし慣習が存在していたと仮定して、そのレールに沿って寸分狂わずカルト宗教の信者は行動するわけなのですが、当然ながら微妙に、もしくはかなり大きく逸脱する信者もいるわけです。もちろんその逸脱の方向は良い方向である時もあれば悪い方向でもあるわけなのですが、その逸脱した飛び値みたいなものを組織の教義に照らし合わせて推論するのは、いわば細かい振る舞いを考慮しなければならないところに対して大きなミスリードを犯してしまうようなものです。そういう意味でごちゃ混ぜという表現を用いた考えを展開していたわけなのですが、もちろんそれも正しいとして更に拡張できそうな気もしていました。結局のところ何がまずいかというとミスリードする過程そのものであり、例えばプロテスタント系の異端はものすごく厳格な教義である事が多いので(ex:JW-Jehovah's Witnesses)、ミスリードそのものが教義に反するという場合も少なくありません。このような場合問われるべくは、その教義の正当性(ここは反証可能性に則って判断できないので微妙ですが)を問うてみたり、他にも社会性に照らし合わせて考えてみたりという、いわば普通の、ありふれた表現でいうならば人間っぽい考え方で比較考量するわけです。それをミスリードと呼んでしまうなら、それはいわゆる人間性を捨てろという定言と等価であり、私としてはそれを認めることはできませんし、またその理由からプロテスタントの異端は大嫌いです。

つまり、一歩先へ進んでみるならば「アプローチの仕方」ではなく「教義そのもの」「慣習そのもの」についても何かしら問題が出てくるのではなかろうかと思います。ただし無闇やたらに外部の者が閉鎖的環境下に置かれている状態で行われている慣習に口出しするのは危険なので、このまま先へ拡張すべきか?と聞かれると微妙だったりしますが、まあそこらへんは少ない脳みそで考えて生きたいと思います。